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家庭を磨き上げる「家族のコンセプト」が大切なわけ

一部のマスコミを見ていると、イデオロギーの影が濃すぎて首をかしげざるを得ません。もう少し素直に自分の目で見、自分の脳みそで考えたら、そういう意見にはならないでしょうと感じることがしばしばです。例えば「家庭」「家族」というものをどう捉えるかですが、当たり前のことが当たり前でないとされることの奇異を、いっぱしの大人であれば放置すべきではないでしょう。

「両性の合意のみ」か「両性の合意」か

憲法第24条はこう言っています。「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」

これに対して自民党の改正草案では、第24条の1項として、新たに次のように付け加えています。「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。」そしてこれに続く第2項として、前記の文言をそのまま載せているのですが、ただ2文字だけを省いています。つまり「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し」という部分で「のみ」を削除し、「両性の合意に基づいて成立し」としています。

家族は自然発生的な寄り合い

さて、政府が憲法に付け加えようとしているのは、家族が自然かつ基礎的な単位であるということと、家族はお互いに助け合うのが当たり前だということです。これに対してある種のマスコミは、厳しい言葉で「古い家族観を復活させるのか」と攻撃しています。「個人よりも家族を尊重するのはジェンダーにつながる」「家族という身近な制度に国家が介入するのはおかしい」などという声も紹介されていたりします。

これを読んで、違和感を抱く人はかなりいると思います。だってどう考えてみても、家族がごく自然なものであり、家庭は社会の最小の共同体であるということは、疑いようのない事実ではありませんか。母親が子を抱きしめ、授乳するのは本能です。これ以上自然なことはありません。その自然発生的な寄り合いから、家族が生まれます。その寄り合いを社会的な共同体へと橋渡しする機能が、家庭の持っている基本的な機能でしょう。「のみ」にこだわる人は、親にも兄弟にも内緒でこっそり結婚したいのでしょうか?

民主主義が家庭を壊している理由

どの民族もそうだと思いますが、長い歴史の中でそれぞれの家族道徳というものを育て上げてきたはずです。日本では戦後のイデオロギーによって、民主化の名においてそれがなし崩しにされてきました。そもそも民主主義の基礎は、個人の尊厳性です。ではなぜ人間は尊いのかと言った場合、キリスト教では明確な答えがあります。つまり「人は神の子である」ゆえに神の前で全ての人は平等に尊ばれなければならない、とされているのです。

ところが日本では、そういう根の部分を切り捨てて、民主主義の形式ばかりを国民に説いてきました。その結果、家庭が次第にぐずぐずになり、家族でなく「個族」が家の中に出現し始めました。いろいろ理由はあるのですが、二世帯住居でなく別々に暮らす親子が増加していき、年老いれば独居老人になり、惨めな孤独死に至る例も増え続けています。

人間存在はイデオロギーでは割り切れない

イデオロギーを重視する人は、一つ思い違いをしているのかもしれません。民主主義といい憲法や教育基本法といっても、制度や法律というものは最低の道徳ですから、人の生き方の基準にはなり得ないものなのです。社会主義や共産主義の是非はともかくとして、そうしたイデオロギーで人間の生き方が決められると思い込むと、赤軍派ではありませんが、組織のルールに違反したものは「粛清しろ」と言って処刑してしまったりするのです。

人間は自然から生まれますが、社会に生きる存在です。それによって単なる動物から人間になるのです。人間になる過程で必要なのは、第一に家族から受ける愛であり、感謝・報恩・互助等のかけがえのない人間的体験です。血の通った生身の人間は、決して一つのイデオロギーで割り切れる存在ではありません。それは歴史を見れば分かります。絶対的な政治思想などあるはずがないのです。

社長とプロデューサーがちゃんといる家庭に

各家庭は、イデオロギーではない一つのコンセプトを持って、社会の中で機能を果たしていくことが大切です。惜しむらくは、今の日本の多くの家庭はライフスタイルにつながるコンセプトを持っていないようです。そのために何かと言えば「古い家族制度」に怯えて、親子の一体感にまでひびを入れてしまいがちなのです。

身分と役割を混同しない、夫婦の円滑な分業の在り方についてよく話し合えば、家庭の社長は誰であり、プロデューサーは誰であることが最適なのかも、自ずと見えてくるはずです。