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無礼者に媚を売る大人は、礼儀というケジメを知らないのだね

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2013.12.20

風格ある大人であれば、もちろん「礼儀」の何たるかを知っています。ところが一部の日本人は、礼儀を軽視し、自由と平等を誤解して振り回すことで、社会秩序にひびを入らせています。今の教育のせいもあってでしょうか、子供が親や先生を尊敬する姿勢を取らず、対等な人間として友達づきあいをする例が見受けられます。これは歪みです。

人権と人格を混同するな

礼儀知らずの者を、無礼者と呼びます。無礼者は、まず、人格というものに「高い低い」のあること知りません。人権は誰にでも平等にあるもので、誰の人権も守らなければなりません。でも人格とか風格というものは、決して全ての人が同じように持っているものとは言えません。

礼儀というものは、社会秩序の中の上下関係と、個人の人格の高低などに従って適切に守っていかなければ、無礼者と呼ばれてしまうものなのです。

世界に恥をさらした成人式

数年前、一部の成人式で無礼者が跳梁して社会の顰蹙を買いました。挨拶をする知事の前に、新成人が酔っ払って躍り出てクラッカーをはじけさせたりしました。

どうせ大人たちは皆「助平で腹黒い」と決めつけ、不埒な自己正当化をして暴れ回り、英雄気分になって自分のアイデンティティー・クライシスから逃げていました。「ばかをやって恥をかく」ことも大切な自由だという、みっともない誤解が底辺にあったようです。

敬する心と恥の念

礼儀というものは、世の中を滑らかに運行させるための潤滑油である、という程度の理解では、まだまだ浅いのです。自己よりも「高い」存在を「敬する」心は、人間にだけあります。そこから健全な「恥の念」というものが生まれます。礼という文化は、そこに根差して育ち始めます。

人生を価値あらしめるための基礎

礼は、心を伴って初めて完成します。形だけの、お体裁の虚礼は礼の抜け殻であって、礼ではありません。自分よりも崇高なものを崇高と認めて、謙虚な尊敬の念を抱くことは、人生を価値あらしめるための基礎の基礎になります。自分が人望を得るための第一歩であるからです。

平等観を修正する必要

人間は全て平等――これはともすると、大誤解のもとになる考え方です。社会的には千差万別、上下左右が厳然としてあります。十人十色、優れた偉人から、箸にも棒にもかからぬ愚者まで、あるいは天使のようにきれいな生き方をする善人から、盗人からでも掠め取る性根の腐った悪人までいます。

それらの人々が、皆対等で同じように扱われなければならないなんて、誰が考えても逆に理不尽でしょう。

礼儀と世渡り上手は無関係

心が白紙状態の子供であれば、人は皆対等で平等であると考えていていいでしょう。でも大人になってそれでは、アホとしか言えませんね。人情を知る、世に明るくなるということは、世渡り上手になることとは別物です。単に世故に長け、おべっか使いになるようなことは、魂の高貴さとは無関係です。

礼儀の形は万国それぞれ

礼儀を知ることは、人間を知ることです。真善美の価値観に基づいて、正しく清く美しく生きる人間の道を知ることです。ただ、初期の段階では礼儀は形を伴うものですから、まず立ち居振る舞いや言動の規律を守るところから始まります。

食事の作法や玄関の整理整頓、挨拶の仕方、目上の人への敬語の使用――こういったことは、日本人が日本人であるために、ぜひ必要なものだと認識したいですね。礼儀のフォームは国によってまちまちの伝統なのです。

目下の者に媚びているのか

「子供の人権」、「若者の人権」という言葉に、大人がビビッている感じがします。「子供の個性」を尊重せよと叫ぶ人がいますが、個性はまず基本があってこそ育つものです。スポーツで基本を教えず、いきなり高等技術を教えたら危険でしょう。同様に、子供にはまず社会の基本ルールを教え、それから個性の伸長を図るべきではないでしょうか。

自信をなくしているお父さん方に言います。「世に浅い」「衝動ばかりで無定見な」「カッコつけ屋の」若者に、媚びてばかりいるのはやめにしましょう。

礼儀は社会のケジメである

いい若者も多くいます。でも始末の悪い連中も少なくありません。そういう無礼者に対して「腫れ物にさわるように」チヤホヤして何になります?

時にはガツンと「人の世の厳しさ」を叩きつけてやるのも、大人の責任ではないでしょうか。礼儀が崩れているということは、ケジメを失って社会が混乱に陥る予兆だとも考えられますよ。

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