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「おもてなし」の基本にあるのは礼儀廉恥の心だという理由

「おもてなし」という言葉がもてはやされています。すこぶる良いことだと思います。日本人の国民性を世界に知らしめようとするとき、この言葉は非常に有力だと私も思っていました。親切で思いやりがあり、相手の身になって細かい気を配る姿勢は、古来、茶道などの基本になっているものです。この機会に、「礼」について思索を深めてみることをお勧めいたします。

個人の尊厳は守られなければならない

どんなに立派なことを書いたりしゃべったりしていても、礼儀感覚の欠如している人は、人から信用されません。ろくな評価もしてもらえないものです。

TPOで無礼講が認められている場合は、もちろん話は別です。でも、自分勝手に「今日は無礼講で行こう」などと独り決めして、人の感情にお構いなしに振る舞うヤカラには困ってしまいます。一般に、知人とのおつきあいでは、個人の尊厳は守られなければなりません。

人の尊厳を美しく装う生活作法

礼儀は、社会生活でお互いの尊厳を踏みつけにしないための、暗黙の約束だと言えましょう。
それは人の尊厳を、美しく装う生活の作法であり、伝統的な知恵だとも言えます。

もっとも、いかにも礼儀正しいと見える人が、いつも豊かな人間性を持っているかと言えば、そうとは限りません。
また、礼儀知らずに見える人が、卑しい心の人間であるとも限らないものです。一見粗野な言動を取っている人が、実は意外に心優しい善人であったりするのは珍しいことではありません。

礼儀は行為における化粧のようなもの

それでも、礼儀というものの存在しない社会では、人間の尊厳や公徳心、万民の温かい共生というものが成立するはずはないと言えるのです。

礼儀は、ある意味で人間の愚かしさを隠す、行為における「化粧」のようなものです。高慢さやエゴイズムや恥ずべき無知蒙昧を見えなくしてくれる、精神の身だしなみです。

個人と社会の間にある礼という倫理

個人と個人の間に、仁という倫理があるように、個人と社会との間には、礼という倫理があるのです。

礼は、ある意味では秩序の別名です。礼は「化粧」である以上、偽りの要素も含んでいるものです。もし「人間はスッピンが一番いい。礼なんてないほうが暮らしはずっと楽でいい」と言う人がいたら、その人はまだ人間というものを知らないのです。素のままをさらけ出したら、人間は粗暴な獣になってしまうものなのです。

言葉遣いの中にもある礼儀

適度の嘘というものが、この世にとっては潤滑油であるということを、20歳を過ぎたら誰でも知っているでしょう。その意味で礼儀は、とかく醜い人間の行為を、美しく装うベールだと言えます。

日本語の中では、敬語という礼が豊かに発達しています。美しい日本語を使いこなせる人は、美しい日本人の心を継承していると言っていいでしょう。控えめで奥床しい言葉遣いは、礼の核心にあるものです。

身を尽くして客人を楽しませる「おもてなし」

「おもてなし」は、客人に対する主人の礼の姿です。できる限りの配慮をし、身を尽くして客人を楽しませるために努力することが「おもてなし」です。日本的なおもてなしの心は、客人に対して「よかれ」と思うことを全てし尽くそうとする心です。他国では、パーティーなどでよく「ヘルプ ヨワセルフ」と言われます。お好きになさってくださいと言われたって、日本人なら困ってしまいますよね。

「神はみずから助けるものを助く」という文化と、「何もありませんがお召し上がりください」という文化との違いがそこにあります。心づくしのものを差し上げながら、「詰まらないものです」と謙遜する日本のマナーは、日本的「礼」の奥深さだと言えますし、さらに注目すべきことは、もてなして喜び、もてなされて喜ぶという、二重の関係がその底流に流れていることです。

したがって、もてなしを受ける側にもそれなりの心がけが必要です。もてなしを受けながら、客人側が無作法な対応をしていては、理想の「もてなし」が完結しないとも言えます。主客の共振というイメージです。

礼儀廉恥(れんち)を大切にする国柄

礼儀廉恥という言葉があります。廉恥は不正を恥じる心です。礼と恥とは背中合わせ。人に恥をかかせないように全力を傾けるのが礼の根本です。

相手の話を傾聴し、共感し、肯定してさし上げる心の在り方。決して形式だけが礼なのではありません。相手の気持ちに飛び込むことができなければ、真実の礼には到達できません。

礼儀廉恥を大切にする国民性があればこそ、落とした現金が落とし主の手に戻ってくるお国柄が誕生するのです。痒い所に手の届くおもてなしを可能にする、思いやりの文化を磨き上げていきたいものです。

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