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帰巣本能と「ふるさと」。男たちの帰る場所はどこか

犬や鳩などには、帰巣本能というものがあるようです。だからかなり遠くに放しても、家に戻ってくる例があるのです。サケは大海に泳ぎ出ても、遥かなる旅路の果てに必ず生まれた川に戻ってきます。

動物は匂い等によって「ふるさと」を嗅ぎ分けると言われています。もしかしたら人間にも、ふるさとに戻ろうとする本能があるのかもしれません。

原点の木・火・土・金・水

生まれた土地の土や風は、生命のふるさとです。陰陽五行説によりますと、木・火・土・金・水の5つが宇宙を形成し、命を生む素材だとされていました。

もしかしたら、命はその終わりに当たって、ふるさとの木・火・土・金・水に戻り、それらと一体化することを要求するものなのかもしれません。それこそが命の原点だと言えるのかも。

母親に帰巣すること

幼い子供を見ていると、母親に甘えしがみつき、一瞬でも離れることを恐れています。その様子を見れば、母こそは人間の本質的な「ふるさと」だと痛感いたします。

成人してからとて、自分が産みの母親からどれだけ遠く独立できているかを思うと、母に帰巣したいという衝動は誰にとっても終生変わることのない本能だと言えるかもしれません。

人間もイワシも同じ?

本能とは、種としての行動様式を「なぞる」ことであります。人間とて動物ですから、ほとんど無自覚に、求愛でも、征服欲でも、戦闘行為でも、独占欲でも、緊急時対応でも、本能の指示する道をなぞります。

水族館で見たことがあるでしょう。数千匹のイワシが群れて、イルカなどに追われると一斉に機敏に逃げまどいます。数千匹がまるで1つの生命であるかのように、敏捷に揃って団体行動をします。あの本能の素晴らしさには、誰もが感動してしまいます。

生命の一滴からはじまった

人間も無数の細胞のかたまりです。自分の細胞のひとつひとつの運命について、考えたことがありますか。恐らく細胞たちの祖先は「コアセルベート」という原始細胞です。それは海の底に芽生えた、偶然でもあり必然でもある奇跡の細胞です。最後にはその生命の一滴に帰巣しようとするのが、生と死の営為というものなのではないでしょうか。

無に帰巣するということ

仏教的には、「無」に帰巣しようとする衝動を「悟り」と言うのでしょう。生を超越し、死を超克し、輪廻転生を離脱して永遠の涅槃を夢見るのが仏教です。命の大車輪から離れるのが解脱です。

生老病死の連鎖を厭うというのとは違います。ただそれに執着しないで生きようということです。愛は生を汚すものですが、愛がなくなれば人生から感動がなくなります。無は、生の否定ではありません。

空が有を生み出す不思議

「ふるさと」は「空(くう)」という名の実体であり、あると言えばあり、ないと言えばないものです。それでいて一切の「有」を生み出す原初のものが「空」なのです。

全ての人の命がそこから湧き出てきた母なる「ふるさと」、神でも仏でもあり、また、何でもないただの場所。それが「空」なる「ふるさと」だと言えましょう。

加齢という名のブーメラン

ブーメランのように、死によって原点に戻っていこうとする命の傾向を、年寄りたちは無言のうちに知っています。後期高齢者の言動を見れば分かります。顔つきも言葉つきも、すっかり幼児期に戻っているからです。

魂が「ふるさと」に帰巣しているのです。その語り口はまるで神話のようです。今朝、家で何を食べたかも覚えてはいません。今日が何曜日かも、自分が何歳なのかも、記憶からはみ出してしまいます。生まれたままの嬰児に戻って、魂の半分以上はすでにあの世に入って「ただいま!」を言っているのかもしれません。

「ふるさと」でした隠れん坊

誰でもふるさとで、子供のころに「隠れん坊」遊びをしたことでしょう。あれは実は「急激な孤独感」「一種の砂漠経験」といった深刻な体験を、陽気な遊びの中でぼんやりと感じ取れるようにできた遊戯なのです。

一時的な迷子の体験です。自分だけが鬼になって、たった1人で皆を探して彷徨しなければなりませんよね。社会から追放された流刑の経験であり、疎外された孤独の姿が「鬼」なのです。

天国か地獄か

鬼は異界の存在です。異界への出入りを楽しむのが「隠れん坊」であり「鬼ごっこ」だったのです。鬼の帰巣する先はどこでしょうか?もちろん、それは極楽ではありませんよね。男たちの帰る「ふるさと」が、天国なのか地獄なのか、それはもちろんあなた自身が生き方によって決めることです。

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