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自己責任の取れる大人と「無責任野郎」の境界線

「自己責任」を論ずるのならば、まずは「自己」を確立していなければなりません。自己は、個人です。ある意味で日本人は、まだ「個人」というものを知らないとも言われています。

とかく、ずるずるべったりの仲間意識で、もたれ合いの「なあなあ主義」が大好きな国民だとも評されます。チームワークとか連帯感とか言えば格好はいいですが、その実は個人としての自覚に乏しく、「自己責任」の取れない民族性なのかもしれませんね。そこにメスを入れます。

間違った自己責任

責任感が強い、と自負している人でも、実は頑迷なだけの人がいます。自分の言ったことに責任を取ることと、頑迷固陋とは別のことです。また、金で全てに片がつけられると思い込み、それで責任を取ったと信じ込んでいる人もいます。これもだめ。自己がないままに、自己責任だけを強調すれば、そのような人が続々と出現することでしょう。

無責任野郎が引きも切らない

あるいは、同朋意識の心情だけが豊かで、偏狭な「義理」を果たすことを「責任」と取り違えていたりします。表面は責任感旺盛のように見せながら、人に知られないとなれば、ハレンチ行為でも涼しい顔でこなす、とんでもない無責任野郎もゴマンといます。

あらゆる弁解を駆使してひたすら責任逃れをするのは、「説明責任」というもののはき違えです。法の裏をかくのが実力ある人間の証明だと心得るのも、法と責任の関係を見誤った曲解です。金と権力さえ手にすれば、どんな横暴でも許されるという錯覚は、幼稚な功利主義から生まれる傲岸無知の結果です。

責任は外部の足かせなのか

よく、こういう人がいますね。「責任者」になるのは最大の貧乏くじだと考えて、必死で逃げ回ります。そのくせ、ひとたび責任者になれば、権力を振り回し、強引に利権をあさったりします。

要するに、自主的に責任を引き受けるという姿勢が全然なく、責任を内面化できないのです。責任というものを、自分の外部にある足かせであるとしかとらえられないのです。

個を持つことは信念を持つことである

自己のない者に、自己責任があるはずもありません。子供が親に手を引かれていずこかへ行くように、社会が自分を連れてどこかへ導いていくのだから、どこへ着こうと俺の知ったことではない、という他律的な態度です。

個を持つということは、自分の世界を持つということです。自分のレーゾンデートル(存在理由)はこれだと、自分なりに納得して信じることです。その核心にあるのは、信念です。西欧などでは、誰もが幼いころからそれぞれの「神」を持っています。信仰は信念のひとつの形です。

教育が知識のカケラになっている

日本では、教育と宗教の間の緊張感がゼロだと言われています。それはそのはずです、教育は宗教に触れてはいかんと法律で決めているのですからね。細かい点は抜きにして言いますが、教育から精神性というものを取り去ったとしたら、後にはカスしか残りません。詰まらぬ知識のカケラをいくら寄せ集めたところで、個の確立にはつながらないのです。

宗教教育というもの自体をタブー視していて、どうしたら「心の教育」ができるでしょうか。ここで宗教と呼んでいるのは、特定の宗派ではなくて、「宗教心」「宗教観」というもののことで、換言すれば生きるための哲学です。

そうした「サムシング・グレイト」を持たない者の生き方は、功利主義のできそこないに似た、白痴的なミーイズムに堕していきやすいものです。me は I ではありませんから、「私が」でなく「私に」「私を」であって、「私にちょうだい」「私を助けて」なのです。個が確立していないというのはそういうことです。

責任が迷子になった社会

ところで、今の日本社会で、一番責任逃れの達者な連中はどこのどなたでしょうか。けだし、その代表は官僚ではありますまいか。巨大な機構の迷路で、あらゆる責任というものが迷子になっているように見えます。

あるいは週刊誌等のマスコミもそうです。公正中立であるという「責任」が、深い霧に沈んでしまい、国民の目からははるかに遠く霞んでしまっているように思えてなりません。

自己責任は大人の条件

民主主義の基本は、自己決定と自己責任です。大人は自己に責任を持たなければなりません。自分の言葉や行動に責任を取ることが「大人の条件」であることを肝に銘じましょう。

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