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何をやっても良い時代。それは自己責任の上に立つ社会の掟

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2013.07.27

人は誰しも自由だ。そう、その通りだ。若い女性が遊び金欲しさに風俗で働くのも、貧乏でも良いから自分の夢を叶えようとするのも、コツコツとお金を貯め起業するのも、またサラリーマンで家族を作り幸せな家庭を築くのも全てが自由だ。

誰にも迷惑を掛けずに自己責任で、現代の社会では何でも出来る。全ては自己の幸せの為、幸せになる為に、みんなは活動し考える。

そこで、社会の掟とは何か。自由というのは、何か素晴らしいもののように思えるが、国単位の法律や会社での規則の中で自由の自由たる制約が大きくなっていく。

世界の社会での自由のルールとは、倫理や道徳であるが、それに国単位で違う法律や、会社ごとに違う社則、上下関係、派閥など、どんどんどんどん自由が不自由なものとなってくる。

特に権利を強く主張し始めた近年、それだけに自己責任の重さは一段と重くなってきた。そんな社会でどうやって自己責任の上に立った本来の自由を取り戻せるのか。それは馬鹿をしない、大きなミスをしないという事で、日本人の真面目という印象を各国に与えている。その反面、ルールルールの縛りで精神的な病に落ち、死者も年間三万人ほど出ている。

現代はもう既に人間の神経を超えたルールの中に人々は置かれている。そんな自由があるのか。本来の自由を取り戻す為にどうすればいいのか。現代社会に生きている以上難しいかもしれない。

「なら、われわれはそのルールの中で戦い死んで行くしかないのか、そんな馬鹿な事があってもいいのか」と誰かに言われそうだが、そこで出て来るのが楽観主義である。やることはやるが、後は結果が評価してくれるといった、結果主義からの転身である。

自由はそもそも社会のルールである倫理や道徳にある。気分転換に長期の旅へ出るのも一つであろう。リュック一つで流れ旅は現代社会の流れと逆行していて自由感を堪能出来ると思う。無理して自国の法律や会社のもろもろのルールに縛られている事はないのである。それこそ何をやっても良い時代なのである。自由を今一度考えてみよう。

自由の間違えに盲目的自由がある。自由だからといってルールが分からないままに軋轢を生む事だが、先に述べたように自由のルールが倫理や道徳なら人に迷惑を掛ける事は無い。自然な営みが自由なのである。

人は誰しも行いの間違いを、経験が少なくてもその行為が間違いである事を悟る事が出来る。これは人間が経験または先天的に持ち合わせている正解への知恵なのである。という事は子供の頃から自由のルールを自然発生的に教わっていると言える。そういう自由を認識するのはずっと後にしろ、自由を求める習性は子供の頃から養われている事になる。

都会に土が無くなったと言われて久しい。道路はみんなアスファルトとなった。建物はコンクリートで夏の暑い時には一段と暑苦しさを覚える。そんな街の中で育った子供達は、カブトムシやクワガタは店に売っているものとしか認識していない。森の中で昆虫採取をした人なら分かるだろうが、もしかするともう数十年も経てば、自由の概念が変わるかもしれない。

グローバルな社会の中で世界が自由の形を変えて行く事になるのかもしれない。とうていデジタル化にはついて行けない私にはアナログな自由が全てなのだが、過去には自由を求めて移住していく人もいた。現代は自然を求めて移住していく人が出ている。自然の中の自由は時には厳しい過酷なものだ。

人さまざまな自由への認識を持っている人は多いと思うが、今一度自由とその自己責任たる社会の掟を考えてみるのも、新しい広がりを見つける鍵になるのではないだろうか。

そこから、今を生きるという事。今を生きるには何をしなければいけないのか。また、自然を考えた生と死や幸せについて考える事も今を自由の掟(ルール)の中で生きる事への新たな発見があるかもかもしれない。くどいようだが、何をやっても良い時代だからこそ、自己責任の上に立った社会の自由の掟が強く求められる時代なのだ。

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