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常識や柵に捕り行き詰まった時、それを解決しあなたを楽する思考

私たちは日頃、この常識という言葉を良く使う。この常識は、時には足かせでもあり、面倒くさいものに感じることがないだろうか?しかし こちらが常識を履行する場にいない時は、人の行動を常識的であるものとして考えている。

この「常識」の正体は、なにであるのか、考えたことがあるだろうか?あまり考えないことであるが、ある面では優れていて、ある面では非常に面倒くさいものである。もし、常識そのものが存在しないとしたら、あなたはどう思いますか?

「そんな馬鹿な事はない!」そんな答えをする人が多いのではないかと思う。

常識は存在しない?

最初に断っておくが、別に私は常識否定はではない。さて話を前に進めると、ある心理学者が言った言葉に「常識は存在しない!」というのがある。この常識という概念は、いくつもの層に分けて考える必要があると思うが、例えば「公共の場」「私的な場」などである。

社会生活をおくる上で、「常識」と言うものは、常についてまわる。また 子供の頃からそう教えられている場合も多いと思う。その常識が存在しない?その答えは、常識は存在するとも言えるし、存在しないとも言える。

例えば単純な例を出すと、日本の特に会社社会において、自分の意見をはっきりと押し通す人は稀であるし、違う意見の者度同士で、会議の席で議論をすると言うのも稀である。一部の会社の雰囲気は随分変わってきて、そう言った会社もあるがまだ少数であるのが現実だ。

そう言った自分の意見をはっきり言わない姿勢、あるいはオブラートに包んだような言い方をするのが、所謂常識の一つとも言えると思うが、海外ではどうか?フランスなどは、例え主婦でも自分の意見が言えないというのは、一人前に扱われないところがある。

それが、政治的な事でもそうだが、日本の主婦のほとんどは、あまり考えないし、考えても角が立つので意見を控える事の方が多いだろう。

常識の普遍性はない

上の例で挙げた通り、常識に普遍性はないと言える。それが上に挙げた心理学者の「常識は存在しない。」と言う言葉の一つの意味である。

つまり場所により、常識が変わると言う事である。当然、生活環境、下流家庭か?中流家庭か?上流家庭か?で、それぞれの常識は少しずつ形を変える事になるが、日本は少し特殊で、どの層もある程度共有感を持っている不思議な国である。

それが一億層中流意識に根源にあるのではないかと思う。しかし 以前の日本も政府が発表しないだけで確実に貧困層は存在していたし、みんなが中流と言われる所得階級ではなかったのは確かである。

上の日本と海外の違いを常識ではなく文化の差だと言う人もいるが、日本で同じように会議の場所で自分の意見を主張すればいい確率で常識がない奴と言われるのではないか?

この単純な例で言えるのは、これは各国の文化でもあるが、それを一般の会話レベル、人間関係のレベルで考える時に常識と言う言葉も当てはめる事ができる。

上の例は大きな国民性の違いで、フランス人が全員そうであると言う事でもなく、日本人が全員そうであると言う事でもない。つまり、あるコミュニティーにおいて、大多数であるかどうかと言う問題と言える。つまり常識とは、本来規定できない曖昧なものである。

個人間の常識

国の違いは、様々な要因が絡んでいるので、日本人間にそのまま当てはめる事は出来ない。しかし 考えてみれば、私たちはその常識をどこから持ってきているのだろう?

経験や社会生活を送っていく上で、人間関係から勉強もしている。しかし それだけではない。その大元にあるのは、何をやっていいか?何をやっていけないか?と、いう幼少からの教育、つまり家庭環境がその根底にある。

家庭環境に根底があると言う事は、それぞれの親の常識や生活面での教育、考え方がベースとなっている。日本人全員が同じであれば問題ないが、そんな事はあり得ない。

つまり、個人間においても、常識にばらつきがある事になる、これが「常識は存在しない。」という言葉の二つ目の意味である。

では、常識とは何か?と、言うと、突き詰めて考えていくと、あるコミュニティーにおける、共感性や社会性であるという結果となる。

人は当然一人では生きていけないので、回りの意見を聞き、自分の考えをまとめて、どう同調していくが考える。同調せずに、コミュニティーと全く違う行動をすれば、そのコミュニティーにはいられないくなる。常識とは、そう言ったものである。

だから、世界ではコミュニティーによって、対人との接し方が変わるし、その差は小さくなっても日本においても属するコミュニティーによって、個々の発現は微妙に変わって来るのである。

それを極端に言えば、私が見ている日常の景色と言うのは、他人には当然違ってものに見えている可能性があると言う事である。それは大きくみれば、私の見ている景色は、フランス人が感じる景色のイメージと違うと言う事である。

それは、ある学閥派に居れば、その思想の流れが常識になり、ある会社にいればその大多数が常識となり、新興宗教に入っている人には、それが常識に近いものに変化して来る。

常識と言うものを理解すると、見えてくる物が変わる!

「常識」そんな言葉に捕らわれた時、そんな風に考えてみてはどうだろうか?所詮、あなたと上司は違う、彼女とも違う同じ人間にはなることは出来ない。しかし 相手を違う人間と思った時、始めて相手を理解する事が出来る。

この「常識」には、他にも様々な概念があるので、一度調べてみると大変面白いと思う。ただ 普遍性がもしあるとすれば、それは「全員が共有できる常識など存在しない。」と言う事だと思う。

同じである事を求めるよりも、違う考え(一部は常識)を持った人間として相手に接する時、それは相手を理解するだけでなく、自分の本当の気持ちや考えを理解する入り口の作業ともなる。

それは、自然にあなたが見ている景色を、変えてくれる。もし普遍的なものがあるならば、常識は一つではなく、見える景色も一つとは限らない。と言う事だと思う。

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