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「ふるさと」は幼少年期の代名詞である。初恋の匂いを思い出そう

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2013.11.19

人は年と共に、心に過去を重ね上げていくものです。重なった幾層もの過去の下に、子供時代の自分の走り回る姿があります。笑い、泣き、いじけ、はしゃぎ、何かと競争し、何かに縋りつき、無心に生きていた、精一杯の命。「ふるさと」の意味を、もう一つの切り口からも掴み取ってみたいものです。

メンコ・ビー玉・犬の糞

手入れのされていない空き地の雑草の中で、駄菓子を頬張り、メンコ・ビー玉・犬の糞。ガキ大将にいじめられながら、下手くそな草野球に興じ、喧嘩に明け暮れし、都会っ子ならば山水よりも鉄工場の屑鉄に囲まれながら遊びました。

大人の矛盾が子供をねじれさせる

暮らしの貧しさが、時には子供心に影を落として、卑しさを植えつけたりもしたことでしょう。一部の子供はすねて、ぐれて、歪んで、非行の輪の中に迷い込み、意地ばかり張っては互いに傷つけ合い、大人の人情の裏側に目を凝らしたりもするものです。大人の価値観の矛盾が、そのまま子供心をねじれさせ、潰してしまうのです。

落ちこぼれは貧乏くじの連続

世間への反抗だけが自己主張になった少年は、自分で自分を地獄へと追い詰め、行き場のないエネルギーを勝手な自己流の夢に預けてもがいたりするのですが、高度成長したのは社会の表層であり、落ちこぼれはいつだって貧乏くじの連続でした。劣等感と運の悪さが邪魔をして、暗い人間観がいっそう真っ暗に染め抜かれたりもしたでしょう。

やみくもに生きようともがいた日々

一面悲惨で、一面野放図で、子供ゆえに批判力もなく、ただやみくもに「生きよう」ともがき続けていたと言えます。ひねもす食うために肉体労働にいそしむ、無思想な親たちの苦しげな背中を見詰めながら……。

ふるさとは土地ではなく、ひとつの時代である

しかし、それにもかかわらず誰もが、自分の少年期を人間形成の原点だと思うほかありません。少年時代の「ふるさと」が、今の自分を彫琢したことを否定できず、原点だと認めざるを得ないのです。

少年は恋を否定しようとする

恋とは何でしょう。少年はある日よじれた心の中に異性を置いて、恋という不思議な感情の前で立ちすくみます。とてつもなく綺麗な感情ですが、それを素直には認められず、花を踏みにじるように、自分に唾を吐きかけるように、しゃにむに恋を否定しようとします。

裏切りという名の後遺症

愛に飢え餓えていながら、1つの愛や恋にとどまることを恥のように思い、恋情を自ら裏切って、引きつった笑いと共に、仲間たちに向かって別れた女の数を自慢し合うのです。

自己否定がよじれて「マジ」な生き方をできなくさせ、照れて、妬んで、甘えて、すねた道へ自己を落とし込んでくと、後遺症はいつも「人を裏切ってしまった」という、酸っぱい後悔心なのです。

恋の本質、裏切りとゆるし

でも、大人になって分かることは、少年期の過ちは「人を裏切った」という後遺症を、抱き続けることの方にあるということです。恋とは、「裏切ること」と、その裏切りを「ゆるすこと」とから成り立っています。

大人が悩まない本当のワケ

この世の価値を「真・善・美・聖」だとしたならば、人間は生まれたときから、これを裏切って生きています。賢い大人は皆、それを知っているから、必要以上には悩まずに済むのです。

希望のスカイツリー

初恋が「ふるさと」である以上、「ふるさと」もまた、「裏切り」の別名だと言えましょう。とはいえ、暗黒に向かって自己を投げ込もうとする少年を、1階から2階へと上昇させる階段が「恋」だとすれば、その螺旋階段は、少年期の希望のスカイツリーだと言えましょう。

恋は不可欠な毒薬なのかも

恋は、子供という動物が大人という人間に変質するための「毒薬」です。なぜ毒薬かと言えば、副作用が強く後遺症が残り、嘘と悪意と羞恥が混交しているからです。

ふるさとの無を賛美する心

大人というものは、この上なくズルイ存在なのかもしれません。だからこそ、「ふるさと」を「無」だと思いながら、「ふるさと」賛歌を提唱しています。「ふるさと」を裏切りの巷に据え置いたままで…。

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