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「味のある熟年」とは。自分自身の思い出との付き合い方を知ろう!

思い出なんて、女の子のアクセサリーだと思って馬鹿にしているお父さんたちに提言します。もう少し真面目に、じっくりと自分自身と対面してごらんなさい。自分の過去は、自身の姿見ですよ。どこの民族も自国の歴史から学んで未来を描くのです。済んだことはもういい、ではだめです。熟年の強味は自らの過去から学べる点にあります。

思い出を捨てるのは、自分を捨てること

文学青年は自叙伝を書く時、派手な修飾語だらけで綴ろうとします。でも大切なのは、華麗な表現でもなければ、大げさな毀誉褒貶(きよほうへん)でもありません。野心が人を走らせ、戦いが人を強くもし弱くもし、涙が心を深くします。

たくさんの自叙伝を読むと、偉い人もそうでない人も、人間は根底では皆同じなんだということに気づきます。自分自身の思い出と向き合うことをせず、無情にもこれを投げ捨てて顧みないことは、自分を捨てることです。

思い出は「事実」というより「作品」である

文学者でもない凡人は、思い出を秘め事として体の奥にひっそりと住まわせているものです。それは世間に晒して自慢したり、懺悔の記録として謙虚らしく発表したりすべきものだとは言えません。

ただ、これだけは知っておいてもらいたいのです。つまり、思い出はつくり上げられていくものであって、「事実」とは別の次元にあるものだということです。思い出は写真ではなく、水彩とか油彩で描き上げられた「作品」なのです。

真実の思い出は「希望」の兄弟である

思い出の断片を継ぎ足したところで「人生」にはなりません。思い出は都合のよいベールをかけた物語であり、事実はやぶの中に沈んでしまっています。

でも人間に大切なのは、事実なんかではなく、「真実」なのです。真実の半分は「そうあってほしい」「そうありたい」で構成されています。生活から「そうありたい」を切り取って焼き捨てたら、多分、「仕方がない」と「やむを得ない」だけになってしまうことでしょう。希望が明日を連れてきます。現実ばかりでは灰色です。

生きていくバネになる思い出を

祖父が臨終のとき、家族がその耳元で「じいちゃん、大丈夫だからしっかり!」と言ってやるのと、「じいちゃん、医者がもうだめだってさ!」と言うのと、どっちが本当でしょうか。事実を伝えるだけならば馬鹿正直というもので、真実は別の所にあるのです。

「思い出」も「言葉」と同じで、明るく前向きなほど心の栄養になります。負の思い出などは、消してしまえればそれがいいのです。生きていくバネになる思い出を、その身に満たしましょう。

思い出は宇宙である

存在論を掘り下げると、自己の存在自体が懐疑の対象になります。この世に確実なものは1つもないという結論になります。政治・経済・法律・正義・民族・家庭・愛――何が本当に信じられるというのでしょうか。そうした中で「思い出」だけは、自分自身の創造した宇宙であり、神は自分なのです。

ですからあなたは、自由にあなたを描き明日の糧にして生きていけばいいのです。思い出を追いかけるほど野暮じゃない、なんて格好つけるのは若い時のことですよ。ある程度年を取ったら、自分の足跡を見詰めないでどうします。あなたの思い出とどう付き合えば一番プラスになるか、それはあなた自身の決めることです。

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